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小泉大日堂の天井を見分

大般若会を翌日に控え、檀家や保存会役員の皆様による小泉大日堂の大掃除が行われると聞き、天井の様子をつぶさに見たいと思いお邪魔した。
『そのまんま語れる上田の民話30』にも掲載する「大日堂の蜘蛛」では、天井裏に潜んだ大蜘蛛を退治するために天井板を剝がし、そのままになっていると伝えられるが、今は天井が張られている。天井材の板は、周囲の柱や梁・板壁の材と全く異なり、新しさが際立つ。「小泉大日堂沿革」に直近の修理は1980年とあり、天井はその際に張られたのではと推測される。

2024年04月20日

春の陽射し浴びる 千古の滝

実相院の大般若会で馬頭観世音菩薩像を拝観した後、帰り道、千古の滝に下りてみた。昨年7月の民話探訪では、雨のためにじっくり見ることができず、再訪を誓った場所だ。
のどかな春の陽射しを浴び、画像に収めるにはもってこいの日和。
左の滝の岩上の祠は船岩水天宮(1770年)、右の滝の岩上は弁財天宮(1768年)。河童伝説や竜宮伝説が伝わる。昔は雨乞いをした場所でもあったという。

2024年04月17日

大般若会で、実相院 馬頭観音像を拝観

4月17日に大般若会が行われ、観音堂の馬頭観世音が御開帳になると聞いて、再び実相院を訪ねた。
大般若会の終了を待って観音堂に入れていただき、須弥壇上のお堂に収められた馬頭観世音菩薩座像を拝観。
坂上田村麻呂が角間渓谷の鬼退治をした際に助力したとされるが、像そのものは室町時代前半の作。片手で持てそうなほど小さい。お堂の中が暗く細部までは見えないが、頭上に馬頭を頂いている様子が見て取れる。
お堂の中にはほかに、向かって右に不動明王、左は四天王の一人か。前にもう一体の前立馬頭観音。

2024年04月17日

実相院を訪ねる

明治の廃仏毀釈で、山家神社にあった白山寺から移されたという十一面観音を拝観したく、十福の湯への帰り道、真田町傍陽の金綱山実相院を訪ねた。
車を駐車場に乗り入れると、外仕事をしていた若い住職さんが気にかけてくださっている。車を降りて訳を話すと、快く本堂に案内してくださった。若い住職さんなのに、心遣いが大変優しい。
十一面観音像は、本堂左手奥に安置されていた。撮影の許可をいただき、画像に収める。
平安末期・藤原時代の作。柔和な表情や衣文の繊細な彫りなどから、京の仏師が手がけたものだろうと言われる。


本堂の左手崖上には、懸崖造りの観音堂が見える。坂上田村麻呂が角間渓谷の鬼退治をした際に助力したとされる馬頭観世音が祀られているが、普段は見られないとのこと。大般若会の際に御開帳になるのだとか。
境内には、角間渓谷の鬼・毘邪王が縛りつけられた鬼松、埋められた場所の鬼石など、見どころが多い。
山号「金縄山」は、毘邪王を鉄の鎖で縛りつけたことから命名。
春にもう一度訪ね、境内をゆっくり回らせていただくことにして、今回は短時間でお暇した。

2024年01月17日

冬の角間渓谷を訪ねる

昨年7月、塩田平民話研究所の民話探訪でこの地を訪れていたが、生憎の雨で写真撮影ができずにいた。
「くらふち通信」27便に角間渓谷の写真を掲載する必要があり、再びこの地を訪れた。雪道を車を走らせ、角間温泉まで進む。これより先は通行止めになっている。昨年6月に下見をした際には、徒歩で入ることもできたが、熊の出没の危険があり断念した。

左側・奇岩怪石群。冬のため、渓谷の水量は少ない。右手の建物は角間温泉岩屋館。
角間温泉は、親鸞聖人の室(妻)恵信尼公(えしんにこう)療養の地とされる。

長い石段を登り、岩屋堂・岩屋観音を参拝。


案内板には、「渓谷中の大小の岩屋洞窟は縄文期の住居跡であるが、ここに悪鬼(あくき)が籠り庶民を苦しめていた。最大の洞窟には、鬼の大将 巨魁毘邪王(きょかいひやおう)が棲んでいた。西暦800年頃、坂上田村麻呂が退治をしようとしたが、要害堅固の岩城と妖術に阻まれ手がつかず、傍陽の金綱山(かなづなやま)実相院の馬頭観世音に祈願し、助力を得て毘邪王を生け捕り大勝した。大同元(806)年、この洞窟が再び悪鬼の巣にならないよう堂宇を建て、観音を奉安。田村麻呂の像も祀られている(要約)」とある。

2024年01月12日

しんぶん赤旗の取材を受ける

2023年11月12日、しんぶん赤旗 くらし家庭部の記者さんの取材を受けました。
来年は辰年。そこで、松谷みよ子さんの創作民話『龍の子太郎』の原話「小泉小太郎」(塩田平)と「泉小太郎」(安曇野)の地を訪ね、新年号に掲載する企画。
前日に安曇野を訪ねた記者さんは、長野泊で10時半に上田駅へ。お迎えに上がり、小泉小太郎生誕の地の鞍淵を案内。紅葉にはちょっと間に合わなかったけれど、盛んにシャッターを切っていらっしゃいました。
その後、所長宅に案内し、なぜ小泉小太郎の母が大蛇で、泉小太郎の母が龍なのかなど、民話の深みを語ってもらいました。
夫神岳に伝わる九頭龍や雨乞い行事、「岳の幟」にまつわる民話についても紹介しました。
ついでに山本宣治や山本虎雄の碑も案内し、15時過ぎの新幹線で帰京されました。

2023年11月12日

白山信仰の地を訪ねる

2023年6月28日、白山信仰の地 石川県白山市を訪ねた。
前日昼に自宅を出発。白山市まで北陸道周りで4時間・310㎞。
早朝、白山総本宮 白山比咩神社の鳥居を潜る。境内は4,700㎡の広さ。

 

 

総本宮を後に、南に1時間。白峰温泉にある林西寺へ。明治7年のの廃仏棄却に抗し、銅造十一面観世音菩薩立像など8体の仏像とともに泰澄大師坐像を下山仏堂に安置し、白山信仰の歴史を伝える。

 

林西寺からさらに10分ほど南下。白山高山植物園まで車を走らせ、左手遠方、雲間に白山三山を垣間見る。

 

市街地への帰り、手取渓谷に立ち寄る。滝壺に落ち込む水量豊かな綿ヶ滝に感嘆。

 

この日は、富山県高岡市の雨晴海岸に宿を取る。
翌日は、万葉の里歴史館や昨年11月に国宝に指定された勝興寺を訪ねた後、帰路に就く。

2023年06月30日

「つつじの娘」に会いに

2023年5月12日、「つつじの娘」の舞台となった《刀の刃》に登ってきた。

国道18号バイパス山口の信号から道なりに北上すると、太郎山表参道・裏参道の分岐点に地図入りの看板が立っている。右手の裏参道に回り、赤色が眩しい小さな鳥居の建つ大山祇神社で登山の無事を祈願し、裏参道の登山口まで車を走らせる。
車が通れるほどに整備された登山道を徒歩で登ること1時間20分。太郎山山頂まで300mを残した場所から「太郎山民俗遊歩(八)」の道案内に従って大峰山に続く尾根伝いを進むと、刀の刃に行き着く。
右手は黄金沢、左手は地獄谷の断崖。足を踏み外すと奈落の底に転げ落ちそうな場所だ。松代の若者に突き落とされた山口の娘の血で染まったと言い伝えられる「血染めのつつじ」、ヤマツツジとレンゲツツジが、今が盛りと咲き誇っていた。
地獄谷の谷底を覗き込んだ眼を転ずると、遠くに坂城の街並み、遥か彼方には雪を頂いた北アルプスの山並みが望める。翻ると、黄金沢側には東太郎が聳える。

2023年05月12日

白山比咩神社を訪ねる

2023年1月13日、上田市山口にある白山比咩神社を訪ねた。
上田市真田町石舟に残る「白山姫」民話に登場する、追っ手の白山神から逃れた白山姫が鎮まったとされる神社だ。
急な長い石段を登りきり境内に立つと、すぐ脇に建てられている由緒書が目に入った。
「祭神伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理媛命由緒
人皇四十五代聖武天皇御宇 天平五癸酉年疫病甚敷発生セルニ依リ 加賀国石川郡ヨリ白山比咩神ヲ分座シ 同年九月廿九日太郎山梺ニ勧請 神僧西光寺神官牛久保氏并奉仕ス 其ノ後延喜四甲子年三月三日滋野幸明太郎山梺ヨリ 此ノ地二ノ宮ニ遷ス 弘安元戊寅年九月廿日上田太郎大江佐泰再建ス 其ノ後元禄四年辛未閏八月十八日氏子一統併力本社再建シ 現在ニ至ル 其ノ間疫病ノ神トシテ崇敬セラレ 又軍サ神トシテ知ラレ
治承四庚子年二月三日   源義仲
天文二年九月三日     村上義清
天文十七年三月十日    武田信玄
天正十一癸未年八月十八日 眞田昌幸
慶長六辛丑年八月十三日  眞田信幸
右記戰国ノ武将夫々戰捷ヲ祈願ス
海抜六百五十米ノ髙所ニ鎮座シ 眼下ニ上田小県ヲ見下シ 遠佐久平美ケ原霧ヶ峯蓼科山ヲ望ム昭和五三年三月吉日」とある。
疫病退散を願い加賀国から白山比咩神社を分座し勧請したとするくだりは、「白山姫」民話の内容と呼応する。

 

一方、昨年秋に尋ねた上田市真田町山家に鎮座する山家神社に纏わる「白山様」民話では、腐れ病を患った白山姫から夫の白山神が逃れ、娘と共にやってきたとされる。娘と夏冬交互に四阿山と山家神社を入れ替わったという内容は、明治初期まで行われていた山家神社の祭事「神送り・神迎え」と響き合う。

白山姫にお供した弥五が鎮まったとされる弥五神社の在り処がわからない。調べを進めると、1901(明治34)年に「草創神社」と改称していることが分かった。以前の表記は「弥伍神社」が正しいようだ。
ただし、こちらの由緒書には「祭神 須佐男命・弥種継命」とあり、疫病退散のため勧請した点は白山比咩神社と呼応するが、勧請元や祭神からは白山信仰との繋がりは見当たらない。

2023年01月13日

お仙が淵が引っ越し?

「木橋が壊れてしまっていてお仙が淵には行かれない」と聞いたのは、10年以上前のこと。今はどうなっているのかと訪ねてみた。
県道62号線の終点、美ヶ原高原に通ずる分岐点に建つ武石観光協会から、県道464号線(美ヶ原公園西内線)を武石川・巣栗渓谷に沿って1㎞程遡ると、駐車スペースに地図を刻んだ木製の観光案内板が立ち、ここが「お仙が淵」であることを示している。目の前の焼山沢石堰堤が武石川を堰き止め、流れ落ちた渓流が滝下の岩棚を滑り下り、淵に注ぐ。見事な景観だ。今年10月に取り付けられたばかりの真新しい単管パイプの急峻な鉄骨階段を下り、間近に淵を眺める。駐車スペースに戻り、徒歩で2、3分下ったところに、かじか橋と呼ばれる木橋がかかっており、対岸に渡って四阿から淵を眺めることもできる。(12月6日)


9日後の15日、稲垣所長を誘って再びこの地を訪れた。平地ではまだ雪の便りを聞かないのに、武石観光協会から先は既に雪道となっていた。所長は、「この淵は初めて見た。かつて見たお仙が淵とは違う」と言う。以前のお仙が淵は、武石観光協会のすぐ脇から武石川に下り、壊れてしまっている木橋を渡って対岸から回るしか行くことができなかったはずと怪訝そうな顔。道中1㎞の間に立つ何基かの案内看板をつぶさに見直してみると、看板によっては以前のお仙が淵の位置を示しているものもある。壊れてしまったという木橋の名は、お仙が橋。今は跡形もない。
帰宅して情報を精査してみたところ、所長の言うとおり本来のお仙が淵に行くには、今は川に浸かっていくほかないらしい。近くに「お仙が淵」の民話のあらましを綴った看板も建てられていた気配がある。
新たなお仙が淵を「お仙が峡」と記している地図もある。
貴重な民話の聖地が、正しく整備されることを期待したい。

2022年12月15日