「そのまんま語れる上田の民話30」

『そのまんま語れる上田の民話30』(塩田平民話研究所編著・2007年発行) 1,000円
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内容紹介

『そのまんま語れる上田の民話30』に掲載している塩田平の民話を紹介します。

 

お仙が淵

上田市巣栗(旧武石村)に伝わる民話

むかぁしむかし、武石の村にどこからともなく三人の姉弟がやってきた住みついた。姉をお仙、上の弟を庄兵衛、下の弟を金次郎(かなじろう)といった。
三人がやって来てからというもの、兎や鶏などの家畜が毎晩のように盗まれるようになった。村の人たちが寝ずの番をしたところ、三人が大蛇に化けて悪さをしていることがわかり退治することになったが、大蛇の祟りが恐ろしい。そこで、神様に祀り上げてしまえば悪さはできまいということになり、岩魚や蛙がたくさんいて獲って食べられるところを選んで、お仙を今のお仙が淵に、庄兵衛を築地原のしょうぶ池に、金次郎を権現の金次郎池に祀り、毎年一回ずつお祭りをすることにした。
それからというもの、兎や鶏が盗られることはなくなった。
何年かたったある年、大そうな日照りになったが、お仙が淵で「雨降らせたんまいなぁ」とお願いをすると、大雨が降った。以来、お仙が淵は雨乞いの神様として親しまれるようになった。

 

ノリデの木

武石に伝わる民話

むかし、武石の村は上田の殿様の領地だったから、上田藩へ米や薪を年貢として納めていた。
ある年、年貢の薪の中に、薪としてはあまりよくないノリデの木をたくさん混ぜて納めた。ノリデは燃やすとピシンピシンはぜるので、藩中ではとても困り、担当の侍が武石の村人に「あの木は混ぜてはならぬ」と厳しく言い渡した。
村人は「あの木はノリデ(乗り出)と申して、馬で乗り出すお武家様のご出陣にはたいそう縁起がいいと思い混ぜて納めたのでごぜぇやす」と答えたところ、侍は「めでたい木であるのなら、これからはそのノリデの木ばかりで束にして納めよ」と申し渡した。ノリデの木は、それだけで束にして納めるほどの量はない。村人は侍の頓智に参り、両手をついて謝った。

 

霊泉寺の不開(あかず)の門

霊泉寺(旧丸子町)に伝わる民話

むかぁし、むかし、信濃の奥の山の中に小せぇ温泉が湧いていた。その温泉の村に霊泉寺というお寺があって、仏国禅師という偉い坊さんが住んでおられた。
ある日のこと、中国から慶書記という絵描きがやってきて、毎日絵を描いていたが、あるとき、何枚もの板を並べて、とてつもなくでっけえ龍の絵を描いた。
龍は、夜になると絵から抜け出して、大雨を降らせたり大風を吹かせたりして、辺りの田んぼや畑を荒らした。
困った村人に、何とかしてほしいとお願いされた禅師様は、龍の胸のあたりが描かれていた板を一枚外し、お寺の門をしっかり閉めて、龍が出られないようにしたところ、龍は暴れられなくなり、村の衆も安心して暮らせるようになった。
それから何年もして、お寺が火事になったとき、胸の板を外されて逃げられなくなった龍の悲しそうにな声が聞こえると、西の空から真っ赤な雲が現れて、霊泉寺にある大きなケヤキの木の上でぴたりと止まった。龍はその雲に乗って天に上っていった。
この火事でお寺はほとんど燃えてしったが、龍が出ないよう閉めておいた門だけが残った。その門は、今でも閉まったまんまになっていて、「不開の門」と呼ばれるようになった。

 

枝垂れ榎

東内・新屋(旧丸子町)に伝わる民話

むかし、東内の新屋に佐吉という若い衆が、おっかさんとふたり、つつましく暮らしていた。
ある年の冬、雪が朝から小止みなく降り続いた日のこと、十五、六になるかならないかの見かけぬ女の子が、素足に下駄ばき、今にも倒れそうな足取りで通りかかった。聞くと、娘は行く当てもないというので、佐吉とおっかさんは手を引っ張るようにして娘を家の中に連れ込んだ。
ゆっくりと月日が経って、佐吉が十八になったとき、佐吉と娘は夫婦になった。それからまた何年かたったある年の春、ふたりに玉のような男の子が生まれた。
その年の秋になると、嫁は朝薄暗いうちに起きて、そっと部屋を出てゆく。帰ってくると、袖の中にいっぱいの榎の実が入っていて、人はあまり食べない榎の実を赤ん坊に食べさせる。
けげんに思った佐吉が、ある朝、嫁のあとをつけてみると、門のそばの榎の高い梢に、まっ白なつぐみが一羽止まって、しきりに実をついばんでいたが、佐吉の姿を見ると、一声悲しげに鳴き、飛び去ってしまった。嫁はそれっきり佐吉のところへは帰ってこなかった。
榎の実をほしがって赤ん坊が泣くので佐吉は途方にくれていたが、冬も間近なある日、通りがかりの旅の坊さんが同情し、榎に向かって熱心にお経をあげると、雪のように白い羽が天から降って榎の枝にしんしんと積もった。枝は羽の重さで垂れ下がり、佐吉は榎の実をらくらく取ることができて、赤ん坊は榎の実を食べて丈夫に育った。

 

こなべだての湯

御嶽堂(旧丸子町)に伝わる民話

むかぁしむかし、丸子から塩田へ越える砂原峠の途中に、一人の鬼婆が住んでいた。
鬼婆は、峠通る旅人から銭や金目の物を脅し取ったり、村に行って米や野菜や鶏・兎なんかを盗んだりしていた。
ある日、鬼婆は村に行って一人の娘をさらってきて、牛や馬のようにこき使い、食うものも満足に与えなかった。
鬼婆が村へ盗みに出かけた留守に、娘は家にあるものをありったけ使って、鍋にうまい汁を作った。ようやくできあがって箸をつけようとしたところへ、いつもより早く鬼婆が帰ってきた。困った娘はとっさに鍋をさげて庭に飛び出し、庭の隅にあった井戸の中に汁を全部押しあけた。
どうしたことか、それからというもの、鬼婆が井戸の水を汲んで顔を洗っているうちに、顔中のあばたが少しずつ消えてすべっこくなり、針金のように硬かった髪も柔らかくなっていった。顔つきもだんだん穏やかになり、ついには、優しい婆さまになった。
娘は優しくなった婆さまを一人にするのが心配になり、それからも一緒に暮らした。
そのうちに、井戸の水は温泉に変わり、皮膚の病気や女の人の病気によく効くと評判になって、「峠の湯」とか「こなべだての湯」と呼ばれ親しまれるようになった。

 

砂原峠の夫婦岩

御岳堂(旧丸子町)に伝わる民話

むかし、百姓の権蔵に「まん」という娘がいた。きれいな上に気持ちも優しかったので、村中の誰からも好かれる娘だった。
ある日、まんの噂を聞いた若侍がやってきて、権蔵に「まんをぜひ嫁にくれ。聞き入れれば望みは何でもかなえてやるが、いやだと言えば法力で石にしてしまう」と迫った。
権蔵は、まんが庄屋の次男の庄次郎に想いを寄せているらしいことを知っていたので、若侍をひとまず帰し、二人の意思を確かめ、遠い所へ逃げるよう勧めた。
あくる朝、暗いうちに二人は手を取り合って出発したが、砂原峠にさしかかった頃、若侍が追ってきた。
若侍が「石になれ!」と呪いをかけると、二人はでっかい二つの石になってしまった。
それからというもの、二つの石の間を花嫁行列が通ると二人がやきもちを妬いて不幸にしてしまうということで、花嫁行列は通らなくなった。

 

女堰(おんなせぎ)

吉田に伝わる民話

むかぁしむかし、養老元年、海野平は土地が広く肥えていたが、水がなく米が作れなかった。
一人の女の人が、何とか水を引っぱって田んぼにしたいと思案し、尾野山の天峰に登って辺りを見渡すと、石舟から水を上げて烏帽子の西側の麓を引いてくれば、海野平に水を持ってこられることがわかった。
無理なことだと誰も賛成しなかったが、女の人はあきらめず、大勢の人夫を集めて夜中に松明を持たせ、水の通り道を決めた。
石舟から海野平までは四里八丁(20㎞)、十七年かかって堰がやっとできあがった。おかげで、海野平だけではなく、殿城・豊里・吉田辺りも広い田んぼになって、米もたんと取れるようになった。
女の人が先に立ってこしらえたもんで、この堰を女堰と呼んだだと。

 

瀧水寺の馬石

殿城に伝わる民話

むかし、殿城村の瀧水寺に、和村生れの小僧がいた。名前を元信といったが、生れた村の名前で「かのう」と呼ばれていた。
元信は絵を描くことが好きで、お経も上げず手習いもせずに、暇さえあれば絵を描いていた。寺に来て二、三年も経つと、まるで生きているような馬を描くようになった。
ある夏の初め、豊作間違いなしと百姓たちが喜んでいた麦畑が、一晩のうちにたくさんの馬に踏み荒らされてしまった。
次の夜、百姓たちが見張っていると、真夜中頃に瀧水寺のほうからたくさんの馬が現れて麦畑を荒らし始めた。村人総出で追うと、馬はまた寺の方に駆け戻り、どこへ行ったかわからなくなった。
元信の描いた何枚もの馬の絵が怪しいということになり、よく見ると絵の中の馬の足に泥がついていた。そのため、元信の絵はみんな焼かれてしまった。
それからというもの、元信は絵を描くことを禁じられてしまったが、部屋にこもってこっそり不動尊の絵を描いているところを和尚が見つけ、絵を畳の下に隠すと畳の下から煙が出てきた。不動尊の絵の炎が畳に燃え移っていたのだった。和尚は、よく描けた絵でもったいないと思ったが、絵を川に流してしまった。
このように何度も不思議なことが起こるので、元信は、和村の「かのう」ではなく有名な絵描きの狩野元信の生まれ変わりではないかと、村人から尊敬されるようになった。

 

米山(こめやま)城

伊勢山に伝わる民話

むかぁし戦国時代に、東太郎山から神川に沿って突き出した尾根の上には、坂城の葛尾(かつらお)城を本城にして北信一帯を治めていた村上義清が築いたいくつもの山城があった。いちばん先に砥石城があり、その正面に米山城があった。
あるとき、甲斐の国の武田信玄が信濃の国を手に入れようと砥石城に攻めてきたが、城はなかなか落ちない。策略を練り、命の水であった城への水口を止めてしまった。
城が落ちるのも時間の問題だったが、城では、三、四十頭の馬を引っ張り出して武田軍の陣地からよく見える広場に並べ、米倉から米を持ち出して馬の背中にざあざあと浴びせかけた。
遠目にこれを見ていた武田軍は、惜しげもなく馬に水を浴びせていると思い込み、水止めも効果がないとがっかりして、戦う気持ちがなえてしまった。
城に立てこもっていた村上軍は今とばかりに突進し、武田軍を散々に打ち破ってしまった。
このときの米が焼け焦げた炭になって、今も城跡から出ることがあるという。

 

つつじの娘

山口に伝わる民話

むかし、山口村に心が優しく働きものの娘がいた。
豊作の年のある秋、娘が幾山向こうの松代から来た若者に逢ったのは、豊年祭りの宵祭りだった。娘と若者は一目見て互いに愛しいと思い、二人はその夜、一晩中語り明かした。
明け方、山越えして松代に帰る若者を見送りながら、娘は胸が痛む別れの切なさを初めて知った。
思いあまって、ある晩、娘はこっそり家を出て門に立つと、太郎山の峰を小さな青い灯りがひとつ、越えていくのが見えた。
その夜更け、松代の若者はほとほとと戸を叩く音に目を覚まし、そっと戸を開けると、目の前に山口の娘が立っていた。
握りしめていた娘の両手には、熱い搗きたての餅が一つずつ載っていた。二人はその餅を一つずつ頬張り、幸せをかみしめた。
それから、娘は夜更けに若者の家に通うようになった。
冬も盛りの雪の降る夜更け、「今晩はまさか…」と寝込んでいた若者が戸を叩く音に目を覚ますと、頭からすっぽりと雪にまみれた娘が立っていた。娘に見つめられて、若者は背筋がぞっとなった。松代の若者仲間にも噂が立ち始めていて、若者は初めて娘が差し出した餅を口にしなかった。
それから、若者はだんだん娘が煩わしくなっていった。
「おめえは、魔性のものに取りつかれているでねえだか。娘が一人で夜中、こんなに幾山越えて通えるはずがねえ」という若者の言葉を聞いて、娘は泣いた。
「いつかこの女に、取り殺されちまう。やられる前に、おらがあいつをやってやる」
思いつめた若者は、ある夜、心に決めて家を出た。
娘が通る太郎山から大峰山にかかる刀の刃という難所で、若者は娘を待ち伏せ、風のように走ってくる娘に襲いかかった。岩棚の雪を血で染めながら、娘は絶壁を落ちていった。
その年の春が過ぎ、夏が来て、刀の刃の岩棚に、血のように紅いつつじの花が咲いた。

 

小太ばば

国分に伝わる民話

むかし、大坂夏の陣で落ち武者になった侍が六部になって信濃の国にやってきて、祢津の大日堂に泊まったときのこと、夜も更けた頃に庭の方から話し声が聞こえてきた。
覗いてみると、猫や狐や狢なんかがたくさん集まって話し合っている。やがて国分寺の小太ばあが来て大勢で踊りだしたが、夜が明ける前にみんないなくなった。
翌日、六部が国分寺村にやってきて、小太ばあの所在を訪ねたところ、猫屋敷という家に小太郎という親孝行な息子がいて、その母親が小太ばあさんだという。
老婆が夜更けに国分寺と祢津村を往復できるものかと不思議に思った六部は、大日堂に戻ってもう一晩泊まってみると、前の晩と同じように夜更けに獣たちが集まって踊り始めた。
六部は、獣が小太ばあさんに化けているものと思い、刀を抜いて躍り込み、小太ばあさんの片腕を切り落とした。
次の日、六部が再び国分寺村に来て村人に尋ねると、小太ばあさんは手にけがをして寝床から起きられず、小太郎が心配して看病するも、「魚を食いたい」「鶏が食いたい」とこれまで言ったことのないようなことをしきりに言いだしたという。
六部が医者に変装して小太ばあさんのところに行き、腕を見せるように言うが、見せようとしない。六部が前の晩切り落とした腕を笈から取り出してばあさんの目の前に突きつけると、ばあさんは血相を変えて腕をひったくり、布団から飛び出して化け猫の正体を現し、煙(けぶ)出しから外へ逃げてしまった。
小太ばあさんは何年も前から一匹の三毛猫をかわいがっていたのだが、ある日小太ばあさんがよそから帰ってみると踊りを踊っていた。三毛猫が化けたと肝を冷やした小太ばあさんが弓矢で猫を射たところ、逆に仇討ちされて食い殺され、死骸を床下に埋められた。小太ばあさんに成りすました猫が、小太郎に孝行させていたのだという。
三毛猫が猫又になった絵が、今も信濃国分寺の本堂に掲げられている。

 

国分寺の鐘

須川に伝わる民話

むかしむかし、力自慢の泥棒がいた。大きな石灯篭だの、立ち臼だの、人間業では動かせまいと思うようなものばかり盗み出して、世間の人をあっと言わせて得意がっていた。
ある日のこと、国分寺のでっかい釣り鐘を盗もうと思い立ち、暗くなるのを待ちかねて国分寺へ忍び込んだ。釣鐘を盗み出して背中に背負うと、千曲川を渡り、川向こうの小牧山めざして逃げ登った。
小牧山の頂上の須川湖まで逃げ延びた泥棒が、一休みしようと背中の鐘を下ろしたところ、急に大鐘がひとりでに鳴り出した。泥棒がたまげて見ていると、鐘はますます大声で鳴り、揺れ出し、ついには「国分寺 恋しや ボボラボーン」と大声一つ残し、湖の中に転がり込んで、ワッカンワッカン沈んでいってしまった。
泥棒は目をまん丸くして、「助けてくりょう、勘弁しとくりょう」と両手で頭を抱え込み、一目散にどこかへ逃げて行ってしまった。
それっきり、国分寺の鐘は湖の底深く沈んで見つからない。大きな鯉になってゆらゆらと姿を見せることがあるという人もいるし、龍になって底に潜んでいるという人もいる。
夏、須川湖で水遊びしていて溺れそうになっても、「おら、国分寺の者だ。助けてくりょう」と叫ぶと、いつの間にか岸の方に打ち寄せられて助かるという。

 

角間の天狗

角間(旧真田町)に伝わる民話

むかぁしむかし、角間のある家でのこと。
夜になって夕飯がすむと、四つか五つになる男の子がぐずりだした。あんまりひどく泣くのでおっかさんが外へ放り出すと、しばらくは泣き止まずにいたが、気がつくと外がばかに静かになっていた。おっかさんが戸を開けてみると、子どもがいない。慌てて庭に出てみたが見当たらない。家じゅうで探しても、近所じゅうで探しても、大騒ぎになって村じゅうで探しても、どこにもいない。
まんじりともせず夜明けを待ったおっかさんが、辺りが明るんできたのに気づいて戸を開けようとすると、外でかすかな物音がして、「かあやん」と呼ぶ子どもの声がした。驚いて飛び出すと、両手にいっぱい饅頭を持ってうれしそうな顔をした我が子が立っていた。
男の子の話では、鼻の高いじいやんが「いっしょに行かず」というので付いていくと、うまい饅頭を食べさせてくれ、「かあやんのとこへ行きてえ」って言うと、負ぶって家の庭まで連れて来てくれたという。
それからというもの、この村では夕飯を早めに食べ、雨戸を締め切って、ザッコという鍵をかけ、家の中も真っ暗にして早々と寝てしまうようになった。

 

地蔵峠の大蛇

傍陽(旧真田町)に伝わる民話

むかぁしむかしのこと、旅役者が一人、仲間に遅れて傍陽から地蔵峠を越して、長野の方に行こうとしていた。峠にさしかかった頃には夕方になっていたので、草刈りに来ていた若いもんが「暗くなると大蛇に飲み込まれてしまうで止めな」と止めるのも聞かず、峠を越していった。
途中で日が暮れたので野宿しようと横になると、辺りが薄ぼんやりと明るくなって、目の前にでっけえ男が突っ立っていた。
男は、「このおれと化けっくらぁしらず。負ければおめぇを飲っくんでしまうど」と脅し、先に立派な侍に化けて見せた。
「今度はおめぇの番だ」と言われた旅役者は、持っていた風呂敷包に頭を突っ込み、これも立派な侍になって見せた。次には女の人に化けて見せ、旅役者の風呂敷包みにはかつらがたくさん入っていたから、風呂敷包に頭を突っ込んでは次から次と早変わりして見せた。
大男はすっかり驚いて「おれの負けだ」と降参し、「おめぇの嫌いなものは何だ」と尋ねるので、旅役者は大声で「お金だ」と答えた。すると、大男は「おれの嫌いなものはタバコのやにだ」と言って、どこともなく姿を消してしまった。
次の日の朝、旅役者が山道を下っていくと、下の村から大勢の人が登ってきて、大蛇退治に行くところだという。旅役者は昨夜野宿したところまで案内し、大蛇はタバコのやにが嫌いだということも話した。村の人たちは持っていたキセルのやにを集め、大蛇を見つけると大蛇の口の中に放り込んだ。さすがの大蛇も苦しがって藪の中に逃げ込み、どこかに行ってしまった。
村の人たちといっしょに山を下りた旅役者は、仲間の泊まっている宿でその夜はぐっすり眠ったが、夜中に布団をはぎ取られて起こされた。見ると、昨夜の大男が立っている。男は、「こんだ、おれが仕返しをする番だ」と言うと、旅役者の枕元を埋め尽くすようにお金を押し開け、「ざまあみやがれ」と言い残すと、すーっとどこかへ消えていってしまった。

 

六部の顔

真田に伝わる民話

むかし、真田の里に百姓の藤兵衛が一人息子の太平と二人で暮らしていた。
秋には太平が嫁を貰うことになっていたが、婚礼をまともに上げてやる銭がねえ。
藤兵衛の家には、毎年夏になると決まった六部がやってきて、七日、十日と泊まっていく。村内を回ってお札を売ったり病人の祈祷をしたりして、その度に何がしかの銭が入る。
藤兵衛は腹を決め、明日は六部が家を去るという晩、別れの酒に酔った六部の頭を鉈でぶち割って殺した。死体は、山の畑に行く道の藪の奥に埋めた。
秋になって、太平と嫁のシノの婚礼が派手に挙げられた。
その冬のある日、外便所へ出たシノの叫び声を聞いて太平が庭に飛び出すと、腰を抜かしたシノが庭の奥を指差し、「白い着物を着た男がじいっと見ている」と言う。
次の年の夏、シノは玉のような男の子を産み、佐助と名付けた。
ゆっくりと年月が経ったある夏の日、藤兵衛が孫の佐助と山の畑に出かけた夕方の帰り道、一足先に帰ったはずの佐助が六部を埋めた藪の前にうずくまって、藪の奥をじっと見ている。藤兵衛が「そんなところで何してるだ…」と声をかけると、ゆっくりと振り向いた顔は、佐助ではなく鉈で頭を割られて血を流した六部の顔だった。「爺やん、どうしたい」という佐助の声に我に返った藤兵衛は、青い顔をして急いで家に帰った。
またゆっくり年月が経って、佐助が十三になった夏の日の昼過ぎ、納屋に入ったまま出てこない佐助を不審に思って、シノが中に入ってみると、納屋の隅で佐助が鉈を研いでいた。鉈は藤兵衛が納屋の奥深く隠しておいた六部を殺したものだった。
畑から帰ってシノに佐助の様子を聞いた藤兵衛は、体をこわばらせた。そのとき、土間の戸ががらっと開いて、「佐助、おめえ…」とうめく藤兵衛に、佐助の手の鉈が振り下ろされ、青白い佐助の顔がにやっと笑った。

 

白山姫

石舟(旧真田町)に伝わる民話

むかぁし、加賀の白山様に白山姫という女神がいて、皮膚の腐れ病を患い、それを嫌った男神の気持ちを察して、こっそり旅に出た。
信濃の国の小県に腐れ病に良く効く湯があると聞いて、長村まで来たとき、一人の石工が川岸で大きな石の舟を根気よく刻んでいた。支度も汚れ、すねから血を流し、目も片方腫らした白山姫とお供の弥五が、追っ手の男神様が迫ってくるので、かくまってほしいと石工にせがむ。石工は刻みかけていた石舟をごろりと伏せて、その中に二人を入れてかくまった。
じきに男神様が現れ、「男と女がやってこなかったか」と聞くが、石工はしらを切る。
男神様は石舟の周りを回って探したが、石舟の下までは気づかず、川岸まで下りると、どっかり胡坐をかいて、「もう、ここまでだ」と言って、懐から取り出した梅の花形の杯を川に向かって投げた。
男神様が盃を投げた川は神川と呼ばれるようになり、この川に棲むカジカの頭は梅の花形をいただいているという。
女神様と弥五は、やがて神科の地にとどまり、その跡が山口の白山比咩(ひめ)神社と、金井の弥伍神社になった。
男神様は、女神様が病の治療に温泉を求めてきたことを知って、この辺に湧いていた温泉を蕗の葉に包んで四阿山の向こうに投げた。それが草津の湯だといわれている。

 

千古の淵の河童

横尾(旧真田町)に伝わる民話

むかぁし、むかしのこと、傍陽の男が千古の滝へ草刈りに行き、引いていった馬を淵のそばの木につないで、草を刈っていた。
千古の滝は、神川の水がどうどうと流れ落ちて深い滝つぼを作り、千古の淵と呼ばれていた。
しばらくして、淵に棲んでいる河童が顔を出すと、「あの馬を引きずり込んで、尻こ玉を抜いてやらず」と淵から上がってきて馬の尾っぽに取りついた。ところが、馬が驚いて跳ね上がったので、振り回された河童は、頭のお皿の水をすっかりこぼしてしまう。お皿の水をなくした河童は力がなくなり、馬の尾っぽに取っつかまったまんま、家まで引きずられてきた。
馬が急に走って帰ってきたので、家の人が何があったかと出てみると、馬の尾っぽに河童が取っついていた。「この河童め、馬ぁ引きずり込もうとしたな」と柄杓で殴りつけると、柄杓に入っていたわずかな水が河童のお皿を濡らし、力を取り戻した河童は逃げていってしまった。

 

怪力孫兵衛

奈良尾(東塩田地区)に伝わる民話

むかし、塩田平の東、奈良尾村の久保に、赤ん坊のころからたまげるくらい力持ちの孫兵衛という男がいた。

石臼を引きずった赤ん坊の孫兵衛

孫兵衛のおっ父は孫兵衛が生まれて間なしに病気で死んでしまったから、おっ母は女手一つ、あっちこっちの家の田んぼや畑、家事の手伝い、使い走りと、朝から晩まで働きづくめに働いた。乳飲み子連れじゃあ半人前扱いだったから、孫兵衛にたっぷりと乳を呑ませると、言葉もわからねえ孫兵衛によくよく言い聞かせて家を出た。孫兵衛は、腹さえ空かなければご機嫌で一人でいた。
孫兵衛がはいはいするようになったある日、天気のいい朝だったので、おっ母は孫兵衛を家の中に一人置いておくのもかわいそうに思い、庭の軒下にあった石臼に帯紐でしっかりと結び付けて畑仕事に出かけた。石臼は大の男の力だって、そう簡単に動かせるものではない。
ところが、おっ母が家へ帰ってみると、孫兵衛ははいはいしたまま庭の真ん中まで紐で結ばれた石臼を引きずり出し、機嫌よく遊んでいた。
力持ち孫兵衛の評判は、奈良尾の村じゅうに知れ渡った。
十二歳頃には一人で米俵を楽々と担ぎ上げるようになり、十五歳頃には米俵を担いで走り、二人前、三人前の働きをした。みんなからは、怪力孫兵衛と言われるようになった。

和尚さんと孫兵衛

孫兵衛のおっ母は、人並外れた力持ちの息子の行く末を案じ、近くの西光寺に寺男として預かってもらうことにした。
孫兵衛は、和尚さんの言い付けをよく聞いて、まめに働いた。
ある夏の日、檀家の法事を済ませて汗びっしょりになって帰ってきた和尚さんが行水を所望するので、孫兵衛は庭先の木陰に行水桶を据えて、手早く行水の用意をした。
和尚さんが目を細めてどっぷりと行水に漬かっていたところ、急に大夕立になった。孫兵衛は慌てて土砂降りの雨の中に飛び出すと、和尚さんを入れたままの行水桶を持ち上げ、土間に運び込んだ。

殿さまと孫兵衛

孫兵衛の評判は上田の殿さまの耳にも入り、どれほどの力持ちか試してみようと、お城へ呼び出された。
孫兵衛は、殿さまはじめ大勢の家来や奥方、お仕えする女衆まで集まっている前で、手初めに米俵を右肩に二俵担ぎ、左手に一俵ぶら下げて、広いお城の庭を飛ぶように一回りした。
「一本歯の高下駄を履いて、背負子に五俵の米俵を付けて立ってみよ」という殿さまの所望にも、難なく応えた。
殿さまが「見事見事。褒美に、高下駄を履いたまま米俵三俵背負って、途中休まず家まで帰ったら全部やる」というので、孫兵衛は三里近い奈良尾の家まで平気の平左で歩き通した。途中、千曲川を渡って長池の近くまで来たときには、魚取りをしていた子ども達と、米俵背負ったままいっしょになって遊んだほどだった。

孫兵衛と大西文太左衛門

上田の殿さまの家来に、これも力持ちで有名な大西文太左衛門という侍がいた。
あるとき、孫兵衛が文太左衛門のお供をして江戸へ行くことになった。二人が熊谷あたりに差しかかったとき、土地の人たちが筍を鍬のような道具で掘っていた。
文太左衛門が素手で筍を引き抜いてみせると、孫兵衛は「おらも大西さまのお手伝いをすべぇ」と、青竹を素手で引っこ抜き、節を指でしごいてつぶして鉢巻き代わりに頭に巻き付けた。
筍掘りをしていた土地の人たちは、「鬼が出たぁ」と叫んで逃げ出してしまった。
江戸に着いて、上田藩の江戸屋敷に文太左衛門が上がっている間、孫兵衛は玄関先で草履番をしながら待った。孫兵衛は、大西さまの草履がなくならないようにと、玄関の柱を持ち上げて柱と土台の間に草履を挟んでおいた。

孫兵衛が寺男をしていた西光寺の仁王門の前には、孫兵衛石と呼ばれる大きな石が今でも立っている。600kgはあろうかという石だが、孫兵衛が山から一人で背負って運んできたものだという。

怪力男異聞

真田にも、怪力男の話が残る。
赤井の八弥という、身の丈2m30㎝もある大男で、八人力という力持ちだった。
八弥の怪力話の中には、孫兵衛と同じく、青竹をつぶして鉢巻きにし、周りの人たちの度肝を抜いたという話もある。同じ上田藩の南と北の話であり、関連が興味深い。

 

金焼地蔵

柳沢(東塩田地区)に伝わる民話

むかぁしむかし、塩田の五加村に、大きな屋敷を構えた大百姓の市左衛門という人がいた。隣の本郷村から柳沢村の方まで田んぼや畑をたくさん持っていて、雇人も大勢いた。
その中に、おきわさんという十八になる美しい女中がいたが、心の優しい娘だったから、五加村の誰からも好かれていた。
春になって、雇人の男衆七人ばかりが柳沢の田んぼに働きに出ているところに、毎日昼のお弁当を運ぶのがおきわさんの仕事になった。おきわさんは、普段から柳沢のお地蔵さんを深く信仰していたので、お弁当のうちからほんの少しだけお地蔵さんにお供えし、それから男衆のところへ届けるようにしていた。
ところが、お弁当の中身が毎日少し減っているのを知った男衆の一人が、おきわは地蔵様の前でつまみ食いしてから持ってくるに違いないと仲間に言いふらした。男衆は怒って、おきわをひどい目に合わせてやろうと相談し、次の日お弁当を持ってきたおきわさんを待ち構えて、おでこに真っ赤に焼けた火ばしを押し付けた。
「ギャー」と声をあげて泣きながら逃げ帰っていくおきわさんの後ろ姿を見送った男衆は、ひどすぎることをしたと内心心配になった。
前山寺の暮れ六つの鐘を合図に一日の仕事を終えて、心配しながら男衆が市左衛門さんの屋敷に帰ってみると、おきわさんはいつものように笑顔でかいがいしく立ち働いている。おでこに付いているはずの焼け火ばしの跡も、残っていなかった。
驚いた男衆が、次の日、柳沢のお地蔵様の前を通ってみると、お地蔵様の額に焼け火ばしの跡がくっきり現れていた。男衆は心を入れ替えて、お地蔵様とおきわさんを大事にするようになった。
おきわさんの災難を身代わりになって救ってくれた柳沢のお地蔵さまは、以後「金焼地蔵様」として敬われ、今も道端で穏やかな顔をして立っている。

 

舞田峠の送り犬

舞田(中塩田地区)に伝わる民話

むかぁしむかしのこと、山の向うの村から塩田の里へお嫁に来た姉やんがいた。
その姉やんが赤ん坊を生むことになり、実家に帰ろうと、大きな腹を抱えて一人で歩いていたが、舞田峠に差しかかった頃には日が暮れかかり、薄暗くなってきてしまった。早く峠を越さねばと気が焦ると、急に腹が痛くなってきた。こんなところで産気づいては困ったことになると思うのだが、腹の痛みは収まらず、ますます痛みが増すばかりだ。我慢できずに草を布団代わりにして横になるうちに、とうとう赤ん坊が産まれてしまった。
産まれたばかりの赤ん坊を胸に抱いて、姉やんは誰か通らないかと待ったが、暗くなった峠道など誰も通らない。
辺りはますます暗くなってきて、どこからともなく犬が何匹も現れ、姉やんと赤ん坊の周りを取り囲んだ。
姉やんは赤ん坊をしっかり抱きかかえ、犬がいつ襲いかかってくるかと震えながら身構えていたが、犬は一向に飛びかかってこない。それどころか、周りをしっかり固めて、狼から守ってくれている気配だ。そのうちに、一匹の犬が姉やんの着物の端を食いちぎったかと思うと、里の家の方へ一目散に走っていった。
里に着いた犬は、姉やんの実家の前で吠え続けた。鳴き声を聞いて姉やんのおっかさんが戸を開けてみると、犬が着物の端をくわえている。おっかさんはすぐに娘の着物だと気づいた。
犬は、もう一声吠えるなり、峠に向かって走り出した。
娘に何かあったと悟ったおっかさんは、犬の後を追った。
峠では、姉やんと産まれたばかりの赤ん坊を、ほかの犬たちがしっかり守っていた。
おっかさんは、犬たちに何べんも礼を言って赤ん坊を抱き上げた。
犬たちは、姉やんと赤ん坊とおっかさんが実家に着くまで、周りを取り囲みながらついてきた。
犬たちに礼を言って、たくさんご馳走してやったのは、言うまでもない。

 

甲田池の河童

十人(中塩田地区)に伝わる民話

むかぁしむかし、塩田の十人村にある甲田池に、一匹のいたずらな河童が棲んでいた。
ある日、十人村の斉藤文治という男が、甲田池の土手に杭を打ちつけて馬を繋ぐと、「さぁ、草ぁたんと食えよ」と言って帰っていった。
すると、河童が水の中から顔を出して土手にはい上がると、杭から手綱を抜き取って、馬を池へ引きずり始めた。
馬は、始めはおとなしく引っ張られていたが、足が池の水に入ると、驚いて「ヒヒーン」と飛び跳ねた。
馬の手綱をしっかり握っていた河童は、その拍子に頭のてっぺんにあるお皿をすっかりこぼしてしまい、力が抜けて、そのまんま馬に引きずられて文治さの家に連れてこられてしまった。
繋いでおいたはずの馬が帰ってきたので、文治さが驚いて馬を調べてみると、手綱の先に河童が取っついている。
「こら、このいたずら河童め、馬ぁ引きずり込もうとしたな。許せねぇ」と文治さが棒てんぎれ振り上げると、河童は平謝りに謝って、「許してくれれば、文治さの家にお振る舞いがあるときは、必要なだけお膳やお椀を用意します」と約束した。
河童があんまり一生懸命頼むので、文治さは少しおやげなくなって、河童を許してやった。
それからというもの、お振る舞いがある度に必要なお膳やお椀の数を紙に書いて甲田池の水に浮かべておくと、前の晩にはちゃんと用意されるようになった。
ところが、あるとき、隣の家のばあさんが、お膳とお椀を一組家に持ち帰ってしまって、池に返すことができなかった。それからは、いくら頼んでも河童は二度と貸してくれなくなった。

 

朝日長者と夕日長者

野倉(西塩田地区)に伝わる民話

源氏と平家の戦があった頃、平家の由緒ある武者が落人となって隠れ住んだのが野倉の始まりだといわれている。
むかし、その野倉に、二軒の長者があった。穴平というところに屋敷を持った方が朝日長者、新居というところに屋敷を持った方が夕日長者と呼ばれていた。
明治の中頃のこと、夕日長者の娘のかめのさんの夢枕に別所温泉の北向観音様がお立ちになって、「長者畑の立石の東方二間、地下一丈のところに宝物が眠っている」とお告げをした。
日頃から北向観音様を信仰していたかめのさんは、翌朝すぐ父親にそのことを話したが、父親は「当てになるものか」と相手にしない。
その後、夕日長者の一家では、火事になったりお金が盗まれたり病気になったりと、不運なことばかりが続いた。
家運を立て直すために養蚕を始めようということになり、桑を植えるために畑の深掘りを始めたところ、お告げのあった場所で鍬がカチンと硬いものに当たった。掘り起こしてみると、石の蓋をした箱の中に古い銭がぎっしり詰まっていた。目方にして三十貫を越えるほどの日本銭・中国銭だった。さらに、土器や布目瓦などもいっぱい出てきた。話を聞いて、見物人がわんさと押しかけるようになり、家運も見る見る持ち直していった。
かめのさんは、北向観音様のご加護に喜び、掘り出した古銭で龍の額を作って、観音様にお供えした。この額は、今も北向観音堂に掲げられている。

 

弘法大師にまつわる伝説

本郷のざる水  上本郷(中塩田地区)に伝わる民話

むかぁしむかし、弘法大師という偉いお坊さまが、日本中を旅しておられた。
ある暑い夏の日、長いこと歩き続けてすっかり喉が渇いた大師さまが、川でざるの中の葉を洗っていたおばあさんに、「すまんが、水を一杯くれぬか」と声をかけた。
おばあさんは、大師さまが破れて埃だらけの衣を着ていたので、ジロっと一目見ただけで、面倒くさそうに、「これででも飲みな」と、葉を入れていたざるを川の水につけて大師さまの鼻先につき出した。
ざるでは水は飲めぬ。大師さまは寂しそうな顔をなさると、何も言わず立ち去っていかれた。
それからしばらくすると、川の水がすっかり枯れてなくなってしまった。上の村でも下の村でも、川にはちゃんと水が流れているのに、おばあさんの村のところだけ川の水がなくなってしまった。村の衆が水のない川を掘ってみると、川の水はずっと深い土の底を流れていた。

百谷  西塩田に伝わる民話

また歩き始めた大師さまは、目の前にそびえる山を見上げ、険しく切り立って鋸の歯のようにたくさんの峰が並んだり深く谷が落ち込んだりしている様子をご覧になって、「見事な山じゃ。ここに、真言宗の道場を造れば素晴らしい霊場になる。この山に谷が百あったら、道場を建てよう」と言われ、谷を数え始められた。しかし、谷は九十九しかなかった。大師さまは、手に持っておられた独鈷という仏具をいちばん高い峰に埋められて、どこへともなく立ち去っていかれた。
それからというもの、この山は独鈷山と呼ばれるようになった。
独鈷山の北東には弘法山という山があって、この山の頂上付近からは小さい半透明の字形の石が出る。互い違いに重なっているので、「ちがい石」と呼ばれている。弘法大師さまがここに来られたときに、この石を村人に与えられ、「この石を大切に持つ者があれば、災厄から逃れさせてやろう」と誓われた。それで元々は「誓い石」といったんだが、いつの間にか「違い石」になってしまった。
今は廃校になった旧西塩田小学校の校章は、この「ちがい石」の形が図案化されたものだ。

舞田峠の焼き餅石  舞田(中塩田地区)に伝わる民話

むかし、旅の途中の弘法大師さまが、みすぼらしいいでたちで舞田の村にやって来られ、日も暮れかかった頃に舞田峠のふもとまで辿り着かれた。
ちょうどそのとき、峠のふもとの農家の軒下で、一人のおばあさんが餅を焼いていた。弘法大師さまは疲れ切って、たいそうお腹も空いていたので、餅を焼く匂いに吸い寄せられるようにして、おばあさんの前に立つと、「その焼き餅を一つ恵んでくださらんか」と頼んだ。
おばあさんは、「これは餅のような恰好をしているが、実は石だ」と言って断った。
大師さまは、「石では仕方ない。すまなかったのう」と言われて、とっぷり暮れた峠道をとぼとぼと登っていかれた。
大師さまが去ったのを見届けたおばあさんが、やれやれと思って焼きあがった焼き餅を食べようとすると、石のように固くなっていて歯が立たない。どの焼き餅もみんな石のように固くなってしまっていた。おばあさんはがっかりして、焼き餅をみんな裏の山に捨ててしまった。
舞田峠の土の中からは、焼き餅ぐらいの大きさの表面がざらざらした石が見つかる。振ると、中の餡の部分が動いてカラカラと音がする。意地悪なおばあさんが捨てた焼き餅が、石になったんだという。
おばあさんは、あれは大師さまだったに違いないと気づいて、それからは改心して優しい親切なおばあさんになって、毎日念仏を唱えながら余生を送ったと。

 

西行の戻り橋

別所温泉(西塩田地区)に伝わる民話

むかし、西行さんという歌詠みをする偉い坊さんがいて、日本中を旅しながら歌を詠んで、仏さんの供養にしたり自分の修行にしたりしていた。
ある年、この西行さんが、佐久の布引観音に詣でた後、別所の北向観音にお参りしようと塩田平に入ってきた。独鈷山を仰ぎながら山田峠の細い山道を登り、峠の峰あたりに辿り着くと、子ども達がわらび(蕨)を採って遊んでいた。
西行さんはからかい半分に子ども達に「子ども衆や、わらび(藁火)を採って手を焼くな」と言ったところ、子ども達は西行さんの被っていたひのき(檜)笠を指差して「坊さんも、ひのき(火の木)笠被って頭焼くな」と切り返した。
西行さんは「こりゃぁ一本取られたわい」とからから笑いながら峠を下っていったが、湯川まで来て、ー待てよ、子ども達でさえあんなに賢いのだから、別所の大人たちはどれほど賢いか見当もつかぬ。村の衆にばかにされてはかなわないーと、北向観音のお参りを取りやめて、湯川にかかった橋を渡らずに引き返した。
それで、その橋は「西行の戻り橋」と呼ばれるようになった。
その後、戻るのは縁起が悪いからと、嫁入り行列はこの橋を通らないことにした。

 

岳の幟

別所温泉(西塩田地区)に伝わる民話

別所温泉の辺りは元々雨の少ない所だが、五百年ほど前のある年の夏、その年はいつもの年に増して雨が降らず日照りが続いていた。
これはもう夫神岳の水の神様の九頭龍王さまにお祈りするしかないということになり、「雨降らせたんまいな~」と唱えて夫神岳に登り、長い布を振りかざして祭りを行った。
すると、夫神岳の頂から真っ黒い雲が湧き起こり、どっと大雨が降りだし、三日間降り続いた。おかげで、今にも枯そうだった作物が蘇った。
お礼に、夫神岳の頂上に九頭龍権現を祀って、毎年幟を上げることになった。ところが、九頭龍権現の祠の向きを別所側にするか青木村の夫神側にするかでおおもめになった。そこで、牛と馬を競争させて山へ登らせ、勝った方に向けることになった。くじ引きをしたところ、夫神が馬、別所は牛と決まった。夫神の馬は最初勢いよく走って登ったが、途中で疲れて登れなくなり、のろのろとゆっくり歩いて登った別所の牛の方が先に頂上に着くことができた。九頭龍権現の祠は別所村に向けて建てられ、馬が途中で登れなくなってしまった場所に夫神の祠が建てられた。
七月十五日の朝早く、青竹に色とりどりの反物を繋げた幟を山の頂上に立て、九頭龍権現にお参りしたあと山を下って温泉街を練り歩く「岳の幟」のお祭りが、今も毎年行われている。
別所温泉にある石湯は、牛と馬の競争に勝った別所村の人々が喜んで、いちばん上にあるお湯を「牛湯」と名付けたものが、だんだん訛って「石湯」になったのだという。

 

岩鼻の唐猫さま

半過に伝わる民話

むかしむかしのおおむかし、上田小県の辺りは、一面のでっかい湖だった。塩尻と半過は地続きで、せき止められた水が満々とたたえられて海のようだった。
あるとき、一匹の大鼠が一族の鼠を山ほど引き連れて、湖の縁の村に入り込んで村じゅう荒らしまわった。村にいる飼い猫も歯が立たない。困り果てた村の衆は、よその土地にいた唐の国から連れてこられたというでけえ唐猫さまを探し出し、大鼠一族に向けてけしかけた。
虎のような唐猫さまに子分の鼠どもは次々餌食になり、さすがの大鼠もかなわないとみて、残った鼠どもを引き連れて逃げ出した。とうとう湖の西はずれの岩山まで追い詰められて、逃げ場のなくなった鼠どもは一斉に岩山をかじりだした。岩山のひとところが裂けると、そこから水が噴き出し、岩山が一気に崩れ落ちた。そこから、湖の水は西に向かって流れ下り、子分の鼠も大鼠も、洪水に呑み込まれて流され、全滅した。唐猫さまも流されて、篠ノ井の塩崎というところでようやくはい上がったが、そこで力尽きて死んでしまった。
上田市半過の岩鼻には、鼠にかみ砕かれた跡が、大きな穴になって残っている。鼠どもが流された下流の坂城町には「ねずみ」の地名が残るし、唐猫さまの流れ着いた場所には、「軻良根古(唐猫)神社」が祀られている。

 

小泉小太郎

小泉に伝わる民話

むかし、前山の鉄城山に小さなお寺があった。
この寺で修行していた若い坊さんのところに、毎晩若くて美しい娘がどこからともなくやってきて、明るくなる前にどこへともなく帰っていった。
不思議に思った若い坊さんは、住職の和尚さんに知恵を授かり、娘の着物の裾に糸を通した針を刺しておく。
夜が明けて見てみると、糸は戸の節穴を抜けて、山の沢を下り、産川の上流にある鞍淵の岩穴に続いていた。穴の中では、大蛇がとぐろを巻いて、赤児を産もうと苦しんでいる。
若い坊さんは、娘が大蛇だったと知って逃げ帰った。
大蛇は、産まれた赤児を鞍岩の上に置くと、刺された針の毒が体に回り、自分の本当の姿を知られた切なさもあって、その場で息絶え、同時に降った大雨に流されて砕け散り「蛇骨石」となった。
「産川」の名が付けられたのは、このためだ。
産まれた赤児も大雨に流されたが、二里余り離れた下流の小泉村で婆さまに救い上げられ、小泉小太郎と名付けられて大事に育てられた。
十五になった小太郎は、婆さまに「一人前になったのだから、少しは手助けをしてくりょ」と言われ、小泉山じゅうの萩を根こそぎ引っこ抜いて二抱えの束にまるけて帰ってくる。
縄をほどかず一本ずつ抜くようにと小太郎が忠告するが、言いつけを守らず小太郎の留守に結び目をほどいた婆さまは、はぜくり返って家じゅうに広がり煙(けぶ)出しを空高く跳ね上げた萩の山に、押しつぶされて死んでしまった。

 

大日堂のくも

小泉に伝わる民話

むかしむかし、小泉の大日堂の近くに、一人の若者が住んでいた。
ある年の暮れ、若者が夜、うたた寝をしていたときのこと、不気味な気配を感じて目を覚ますと、一匹の蜘蛛が天井から糸を光らせ、若者の顔の間近に下りてきていた。
「夜の蜘蛛は親に似ていても殺せ」と母親に言われていた言葉を思い出して、叩き殺そうと思ったが、蜘蛛がまだ小さくかわいそうに思えて、殺すのを止めた。
夏になって、朝早くから小泉の日向山に下枝払いに入った若者が、切り株に腰を下ろして昼飯を食い、しばらく横になった。
そこに一匹の蜘蛛が現れ、寝ている若者の足の指に糸を巻き付け草むらの中に消え、また出てきて指に糸を巻き付ける。繰り返すうちに、糸が太くなって紐ほどになり、若者の指を縛りつけた。
そのとき、若者と同じように山に入っていた村の衆の一人が山を下りてきて、この様子を見てただ事ではないと感じ、若者をたたき起こす。二人して蜘蛛の糸を切ろうとするが、なかなか切れない。ようやくのこと切り離して、蜘蛛の糸を傍にあったでっかいつつじの木の幹に括り付けた。
その途端、つつじの太い株がぐらぐら揺れ始め、蜘蛛の糸に引っ張られて根こそぎ引っこ抜かれ、宙に舞い上がって山を下っていく。二人が後を追いかけると、つつじの木は大日堂の天井の中へ吸い込まれていった。
話を聞いて村じゅう大騒ぎになり、蜘蛛を退治しなければということになった。郡役所の侍を先頭に立て、村の衆大勢で大日堂の天井をはがすと、中に居座っていた大蜘蛛が向かってきた。激しい戦いが長いこと続き、ようやく大蜘蛛が退治された。
それ以後、二度と化け物が棲みつかないようにと、大日堂の天井は張らないままになった。

 

でえらぼっちと後家さん

越戸に伝わる民話

むかしもむかし、おおむかし、でえらぼっちという雲をつく大男がいた。
そのでえらぼっちが、背中に夫神岳を背負い、女神岳を手に載せてどこからかやってきて、青木と別所の境に夫神岳を下ろし、その傍に女神岳を置いた。そして、どこへともなく南の方へ去っていった。
青木村の殿戸には、そのときできたでえらぽっちの足跡が残っている。
殿戸の隣の越戸に、むかし、一人の貧乏なかみさんが、亭主を病気で亡くして一人暮らししていた。ほんの少ししか田畑のないかみさんは、殿戸の山畑の隣にある畑一枚ほどの荒れ地を耕して、そば畑にしようと考えた。
朝早くに出かけ、夕方まで荒れ地を耕して、そば播きの用意をした。ところが、翌朝行ってみると、元の固い土に戻ってしまっていた。同じことを十五回繰り返し、このうえは神様におすがりするしかないと、日頃信心している尾根のお不動さんに願をかけ、二十一日毎朝熱心にお参りをした。
すると、満願の夜、かみさんの夢にでえらぼっちが現れて、「あの土地は俺の左足の足跡だ。俺の土地だが、おめぇにくれてやる。その代わり、そばが実ったら必ず俺にも食わせろ」と言う。
目を覚ましたかみさんが荒れ地を耕すと、楽に仕事がはかどって念願のそばを播くことができ、秋には見事なそばがいっぱい採れた。
それからは、かみさんの家の暮らしもだんだん楽になり、新そばが採れる度にそばを打って、でえらぽっちにお供えしている。

 

座頭ころがし

越戸に伝わる民話

むかし、越戸から別所の安楽寺に通じる峠道があって、峠には深く切り立って谷になだれ込む険しい場所があった。
今から百六十年ばかり前の万延元年旧暦三月のこと、一人の目の見えぬ座頭坊さまが杖を頼りにこの峠を越えようとしていた。
座頭坊さまが難所の崖の細道に取りついて半分も過ぎた頃、急に二人の足音がして座頭坊さまに真っ直ぐ向かってくる。ただならぬ気配を感じて慌てて逃げようとしたが、二人はすぐに追いつき、座頭坊さまの着物を剝ぎ取り財布を巻き上げ、ついには座頭坊さまを底知れぬ谷へ蹴り込んで転がり落とした。
それ以来、その辺りには夜な夜な一つ火が迷い出、谷底からはうめき声が聞こえるようになって、峠道を通る人はぱったり途絶えた。
困り果てた越戸の衆は、諏訪の名僧の徳本上人を招いて座頭坊さまの供養をしてもらったところ、一つ火も消え、うめき声も止んで、人の往来も以前に戻った。
座頭坊さまを転がり落とした険しい難所は、誰言うとなく「座頭ころがし」と呼ばれるようになった。