六合 民話探訪

2024年8月4日
毎年「民話 語りっこ 学びっこ」に参加してくださっている群馬県吾妻郡中之条村の「六合の文化を守る会」を訪ねました。
参加者7人
7人乗りワゴン車(セレナ)1台に、全員が乗り込んで出発です。

青木村 発8:00-上田8:40-鳥居峠9:20-10:00長野原10:35-11:10六合 入山 ねどふみの里(六合民話の家)11:45
-尻焼温泉 川風呂11:50-12:05大仙の滝12:35-12:45荷付場の道祖神12:55-13:00道の駅六合(昼食)13:55
-14:05暮坂高原オートキャンプ場「半右衛門の泉」14:40-14:55旧太子駅15:20-白砂川「河童渕」-15:30赤岩集落16:25
-上田18:10-青木村 着18:40

六合では、「六合の文化を守る会」の山本 茂先生に案内していたきました。感謝に堪えません。
また、暮坂高原オートキャンプ場では、昨年の「民話 語りっこ 学びっこ」で「半右ヱ門の泉」を語ってくださった中沢久美恵さんにお会いでき、キャンプ場内にある半右衛門の泉を見せていただきました。

ねどふみの里(六合民話の家)で山本先生と合流。

山本先生から六合民話の家の説明をお聞きする。

民話の家に上がらせていただき、内部を見学。

二階には、昔懐かしい民具が並べられている。
写真中央の竹籠は、病人駕籠。
山間に暮らす六合の人々が病院にかかることはほとんどなかった。家庭常備薬の富山の薬で済ませるのが常であり、病人駕籠に乗せられて草津の病院まで運ばれるときは、看取ってもらうもらうときだったという。どんな思いでこの駕籠に乗せられ、見送ったことだろう。今生の別れそのものであったに違いない。死出の旅というほかない。ここに、暮らしがある。

屋根裏の骨組みは、すべて縄で組まれている。

 

尻焼温泉の川風呂では、川の底から湯が湧き出している。川そのものが野天の湯船。

 

世立八滝の一つ、大仙の滝を見るために、滝見ドライブインの駐車場に車を停めると、傍らに地蔵像が二体佇んでいた。
夜泣き地蔵と呼ばれている。
間引きする子どもには新しい草履や下駄も履かせてやれず、この辺りに葬られた。そのために、夜になると「じょんじょ(草履) ほしいよ」「かっこ(下駄) ほしいよ」と言いながら子どもの泣く声が聞こえたという。
その霊を慰めようと、夜泣き地蔵が建てられた。
向かって左側の地蔵は左腕で子どもを抱え、足元にも子どもがすがっている。

大仙の滝。落差20mの直瀑。ミストが涼感を呼ぶ。

滝の上流の岩肌の中央に、天狗の足跡(左足 縦10m・横幅5m)が見える。
天狗が一本歯の下駄を脱いで裸足になって岩に飛び移った跡だという。
右足の跡は、20㎞も離れた長野原にあるとか。

世立八滝は、大仙の滝のほか、段々(だった)の滝、箱の滝、久内(きゅうない)の滝、不思議の滝、井戸の滝、殺人(さつうぜん)の滝、仙の滝の7つ。
「殺人の滝」は、昔、旅の僧を突き落とし金品を奪ったことから名付けられたという。
また、「久内の滝」には、久内という人が河童に引き込まれたという民話が残る。
「仙の滝」は、仙人が発見したという。

 

荷付場の道祖神。抱擁道祖神とも。
二体が抱き合っている姿は珍しく微笑ましい。高遠の石工が彫ったものだと言われる。
六合では、道祖神をあちこちで見ることができる。

 

道の駅六合で、昼食。

 

暮坂高原オートキャンプ場。
高原の空気が爽やかだ。キャンプ場内には、小川も流れている。
湧水の「半右衛門の泉」を囲む。

キャンプ場管理棟受付で、中沢さんご夫妻とともに。

 

旧太子駅。駅舎の後ろにホッパー棟が見える。
ホッパー棟やホーム・駅舎の復元などを行い、2018年4月から観光資源として一般公開を始めた。2021年2月、国の登録有形文化財に登録。
太子駅は、戦時中の1945年1月に日本鋼管株式会社群馬鉄山の鉄鉱石を運ぶ専用線 太子線(太子~長野原)の始発駅として開業。1952年10月、国鉄に編入。1954年6月には旅客営業を開始したが、1966年3月に群馬鉄山が閉山し、1971年5月に路線が廃線となった。
終戦7ヶ月前の開業。朝鮮の人々が強制労働させられた歴史を忘れてはならない。戦争は、すべての人々の生命・人権・幸福を剥奪する。

ホッパー棟。全長約100m。
鉱石・砂利などを上部から投入し、下部に進入した貨物車の荷台に直接排出し積載する。
群馬鉄山(現 チャツボミゴケ公園)で採掘した鉱石を直線距離8㎞の索道で運搬し、太子駅のホッパーで、貨車に積み込んだ。
現存するのは1階の柱部分のみ。当時は3階建ての施設だった。

 

国道292号から赤岩集落に向かい、白砂川を渡る。
橋から下流(南側)を眺め、「河童伝説」が残る川筋を望む。

 

赤岩集落。
上の観音堂。集落内最古(1764年)の建築物。唯一の茅葺屋根。

湯本家住宅は、工事中で建物が覆われ見学できなかった。
1806年に建てられ、1897年に3階部分が増築された。2階には、蘭学者 高野長英を匿った「長英の間」が残されている。
切り取った河童の腕を返す代わりに、「河童の妙薬」が伝授されたという伝説が残る。

関家の三階屋。
地区内最大の総三階建て建築物。
上層階になるに従い、軒が迫り出している。養蚕に対応。
集落全体が、2006年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

集落入口の水車小屋を背景に、全員で記念撮影。

六合は、1889年4月の町村制施行に伴い草津村として発足するが、1900年に分村し、旧 小雨・赤岩・生須(なます)・太子(おおし)・日影・入山の六つの大字を合わせ「六合村」とする。
『古事記』上巻序文に「乾符を握って六合を総べ」、『日本書紀』の神武天皇即位のくだりに「六合を兼ねて以って都を開き」とあり、「六合」とは天地と東西南北、支配の及ぶ範囲「国」を表すことから、「くに」と読む。
2010年3月28日、中之条町と合併。

2024年08月04日